今週は週末に「稲妻フェスティバルWEST」に出店のため、
木曜日にブログをアップする事になっていた酒丸です。
先週からの続き(メイソン系の都市伝説)を書こうと思っていたのですが…
個人的に「大変な喪失感を受ける事態」が起こってしまいました。
なので本日は哀悼の意を込めつつ、
今まで沢山の事を与えてくれた大先輩の事を書いておきます。
私がそもそもこういった洋服屋を始めたキッカケは、確実にこの方の影響。
クリームソーダの社長、山崎さん。
当時、田舎の十代だった私に「色々な外界」を見せてくれた方だった。
最初の入り口は当時の唯一の情報源である雑誌。
未だに取っておいてある。
下の雑誌は1982年のホットドッグプレス、
上の雑誌は1981年のブルータス。
どちらもフィフティーズ特集の雑誌。
どちらの雑誌も「穴が空くほど」読んだ。
そして、ブルータスに掲載されていた記事は数年後、
洋書の中で再会。
MID-CENTURY MODERNの最後の章は、山崎さんの部屋が掲載されていた。
今でも私のバイブル。
当時のクリームソーダでは、服や雑貨以外にも多くの本も売っていた。
また、スタッフがやっていたバンドのレコードもあった。
高校生の時に、ガレッジの前でたむろしていたら、地方から出てきたらしい親子連れに
「ここは入場料が要るんですか?」と聞かれた事もあった。
当時から購入したものは、未だに殆ど持っている。
中でも「クリームソーダ物語」が一番のお気に入り。
この本のデザインをした人が、中山泰さん。
今でも仲良くさせていただいている。
ドライボーンズの原点。
中身はこんな感じ。
こんなページがあったから、毎年新作のハットや新作のソックスを作る。
紳士用ハットはあくまでもエレガントに。
ソックスは当時の物のようにイレギュラーなアーガイルで。
こんなページもある。
リゾーティな、幅広のプリントタイ。
だからやっぱり作ってしまう。
アトミックなプリントやイレギュラーなアーガイルのプリントタイ。
そして一番のショッキングなページはこれだった。
このページのせいで、進学校に通っていた私は「靴屋」になりたい、と思ってしまった。
高卒後、靴屋で1年働いてからアメリカ古着を扱う店に転職。
その後、夜間のコックのアルバイトをやって金を貯めてアメリカにいった。
当時、まだアメリカに行くにはビザが必要だった。
不法移民に見られないように、通帳のコピーも必要だった。
そしてアメリカで、山崎さんが見せてくれた「外界」を勉強した。
23歳で古着屋を始めた。
そんな時に出会った、この靴!
うわっ、あの本に載ってた靴と同じ柄だ!
ずっと大切に取っておいた。
古着屋からオリジナルを展開する服屋になり、靴も作るルートも出来た。
なので当然、作る。
型押しのデザインも完璧な、ウエスタンモックスシューズ。
ちょっと今は在庫が切れちゃっているけれど(汗)、
個人的にはドライボーンズの「存在意義」に近い商品。
それくらいの「熱くて長い思い入れがある靴」なのでちゃんと今後も作る予定。
金具も探さなきゃ(汗)。
直営店舗にて予約も承ります。たぶん、年内には作れる筈。
山崎さんを始め、クリームソーダのスタッフ全員に憧れた。
怪人二十面相からのワカさんやトシちゃん、
ガレッジにいたエグリンやガドさん。
並木さんには古物を良く買ってもらったし、
伴さんや修さんには納入業者としても可愛がってもらった。
はっつぁんの結婚式にも呼んでもらった。
他にも沢山、想い出がある人達ばかり。
そして店舗にも憧れた。
屋上にプール、一度夜に見せてもらった事があるけれど…
30年前にあの場所で、最上階にプールがある店舗兼自宅。
「想定外」の価値観を持ち、実現させていく人。
どんな背景で育ったのか?を知りたくて、
北海道の赤平まで行った事もあった(ストーカー状態:汗)
「洋服屋」として、あんな風にお客さんと付き合える店を作りたかった。
一昨年の震災や、昨年までのデフレなど、経営者としてかなり追い込まれたけれど、
スタッフや家族に助けられた。
山崎さんのいう「宝はいつも足元に」は本当だ。
今はただ…喪失感があるけれど、乗り越えていきたい。
指針がいきなり前触れも無くなってしまったような感覚だけど、
代表として「足元の宝」を大切にしていきたい。
そして経営者として「絶えず仕掛ける側の人間」でいたい。
企画をする立場として「お客さんに夢を分ける事が出来る品」を作りたい。
余りに多くのモノを学ばせてくれた大先輩。
ご冥福をお祈りいたします。
三つ子の魂、百まで。
雀百まで踊り忘れず。
アッチ側では、きっと伴さんと新しく何か仕掛けようとすると思います。
その時はまた、勉強させて下さい。
実はこの動画に、ワタクシ映っております。
撮影2時間。映ってるのは0.5秒くらいだけど(汗)
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